友好の碑

 ウラジオストクから帰ってきた会員さんが写してきてくれた写真です。意外なところに日本語のプレートがあったので驚かれたようです。

 ウラジオストク市街地の東側、チハヤ展望台にある日本語のプレート。

 海を見渡せる静かな展望台です。この海の先には日本があります。

 「第二次世界大戦終結50周年を記念し、再び歴史の過ちを繰り返さないことを誓いつつ、ここにこの碑を建立する。鎮魂・平和・友好のために!1995年8月15日

 戦後50周年のこの日に日本ユーラシア協会や日本ロシア協会(ロシア側の日本友好団体)が協賛をつのって建立した友好の碑です。

 日ソの場合「第二次大戦」には日本人抑留者問題が大きく横たわっています。

 日本人抑留者は戦闘員ばかりではなく、満州開拓団の民間人もいました。そのため抑留日本兵ではなく抑留日本人です。

 ロシアのみならず、キルギスタンやウズベキスタンなどソビエト全土、衛星国だったモンゴルに日本人が抑留され、建設作業などに使われていました。ウズベキスタンのタシケントにある劇場やモンゴルのウランバートルにある建物など、日本人が作った建物を私も目にしてきました。ウラジオストクは太平洋艦隊の重要拠点で、ソビエト市民でさえ簡単に立ち入れない街だったので、収容所は空港近くのアルチョムが一番近いです。

 志半ばで異国で息絶えた人々のためにソビエト各地に日本人墓地があります。グラスノスチ(情報公開)以降ソビエト崩壊、新生ロシアの時代にはこうした抑留地や墓地の場所探しや、遺骨収取が両国にとって大きな仕事でもありました。

 民間団体が中心となって墓参団や遺骨収集団を結成して、シベリアを中心に各地に赴きました。ここにいたる道のりはとても長く険しかったことでしょうが、日露(日ソ)双方の心ある人たちの地道な取り組みが今日の足元にはあります。

 1945年8月9日のソビエト参戦から終戦後の9月9日までに59万人の日本人がソ連の捕虜になったといわれています。1946年12月からナホトカ-舞鶴や函館へ抑留者の期間は始まっていますが、1956年12月26日を最後に引き上げ船は出なくなりました。

 ジュネーブ条約で捕虜を強制労働に従事させてはいけないことになっていますが、ソビエト側の言い分は衣食住を提供する対価として労働で奉仕してもらったと言う言い分です。

 当然、ドイツ兵やイタリア兵も捕虜となっていますが、日本人ほどひどい扱いはされなかったようです。

 フィリピンのモンテンルパなど南方で捕虜になった日本兵も多いのですが、南方で捕虜になった人たちと比べるとシベリア抑留者は口が重いです。「人間の最も醜い光景を散々目の当たりにしたから、口に出したくない。」という人が多いです。

 ソビエト抑留以上に女性や子供を含む民間人にも多くの犠牲者を出した満州(中国東北三省)において、日本人墓地は黒龍江省の方正県に一つあるだけですが、ロシアには各地に点在しています。

 平和で、友好が成り立っているからこそ、こうして気軽に往来できるようになりましたし、国境を越えて結婚することも可能になりました。幾多の礎があったり、多くの人たちの地道な苦労の結果だと思いますが、これこそ平和の賜物です。

 今でこそ当たり前のようになったロシアとの関わりも、決して簡単な道のりではなかったよく自覚して、身勝手にならず誠意あるお付き合いをお願いしたいです。

06.4/4