浦塩斯徳
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ウラジオストクを日本では「裏塩」とか「浦塩斯徳」と当て字しますが、”ウラジオストク”と言う音を漢字に当てはめたものです。ところが、これは日本の漢字の読み方に当てはめたものですから、中国では通用しません。中国語ではウラジオストクと言う”音”とは関係なく「海参崴」と表記されています。 「海参崴」はロシアがこの地に入り込む前からの名前です。1860年に北京条約で帝政ロシアが清国からこの一帯を獲得する前は、中国(清国)の影響下にあった名残です。 ウラディ(領有する・征服する)ヴォストーク(東・東方)でウラジオストクですので、日本式に”ウラジオ”と言っても意味は通じません。余談ですが、”制服”を意味するウラディは人名にも用いられていて、ロシアの男性に多い名前のウラジミールはウラディ(征服する)とミール(世界)で”世界制服”です。 プーチン大統領の名前もウラジミールです。 |
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ウラジオストクの歴史など100年少々で、実際には人々が大量に移り住んできたのはスターリン時代で、100年に満たない街といえるでしょう。 ウラジオストク市民の多くは3代、4代の家族の歴史しか持たず、多くは1940年代から50年代にかけて西から半ば強制的に移民させられた人々です。 文字通り”東方を征服せよ”とばかりにソビエト政府によって貨物列車の貨車に押し込まれて運び込まれた人々です。 スターリンの時代に民族シャッフルをしたために、ロシア人の親戚関係は広い範囲に散っていることも多く、ウラジオストクに住んでいて親戚はモスクワやサンクトペテルブルグなど1万キロ離れているなどましなほうで、ウクライナやベラルーシやウズベキスタンなど別の国になってしまった家族もいます。 |
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ソビエトができた頃のウラジオストクだそうです。80年位前ですね。現在のスベトランスカヤ通りあたりの光景だと思います。
チェコ人の兵士達だそうで、チェコは帝政ロシア側に加担していたようです。 今ではこの斜面にを多い尽くすように建物が建っています。 右の建物には”マガジン”と看板が掲げられていますから、商店だったのでしょう。 1904(明治37)年2月から1905年9月にかけての日露戦争と終戦直前1945年8月にソビエトが突如宣戦布告した第二次大戦の二回に渡って日本とロシアが戦争をしたことは知られていますが、実際には4回の戦争が行われています。 後の2回は |
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帝政ロシア末期の来たソビエト革命に対して、チェコ人捕虜救出の名目で米・英・仏・伊に混ざって日本も出兵したシベリア出兵、1919年(大正8年)から1924年(大正13年)。 もう一つは1939年5月から9月にかけて満州と蒙古の国境争いで、後ろ盾の日本とソビエトが激突したノモンハン事件。モンゴルでは”ハルヒン ゴル”ハルハ河の戦争”と呼ばれています。 |
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英語で”メリー・クリスマス・シベリア”とありますから赤十字でしょうか。1919年の写真です。赤十字なら12月25日のクリスマスの可能性もありますが、シベリア出兵の始まった年ですから12月の可能性が大きいです。 シベリア出兵の時代の写真ですね。建物からウラジオストクだそうです。向こうの知人が言うには海浜公園や競技場があるあたりだろうとのこと。この時代のウラジオストクにはロシア人よりも、元々住んでいたアジア系の人のほうが多かったと思います。 ナースがいるところを見ると、背後のコンテナーは衣料物資かもしれません。左の軍人はロシア人ではなさそうですね。 ソビエト軍が極東まで攻め入ってきて帝政ロシアを支援した多国籍軍や赤十字も撤退しますが、このころロシア極東から満州にかけてコレラが大流行したそうです。 |
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06.1/4 |