こんな歴史が

 1992年に外国人の立ち入りが許されるようになったウラジオストクですが、そのソビエト時代に一時期途絶えていたものの、日本とウラジオストクとの関わりは帝政ロシア時代に遡ります。

 ロシアと言う国から見れば冬でも凍結しない港を持つウラジオストクは喉から手が出るほどほしかった港ですが、政治的思惑とは別にウラジオストクは毛皮交易の場として栄えるようになります。シベリア奥地からはテンやミンクなどの毛皮が、アリューシャン列島やカムチャッカからはアザラシの毛皮などがウラジオストクに集まり、貿易の拠点になりました。

 幕末には薩摩藩や加賀藩を中心に日本人が往来するようになり、明治元年には日本人が住み着いています。交易をする商人や毛皮で一攫千金をねらう猟師が日本から移り住み、明治20年代には3000人を超す日本人がウラジオストクに住んでいたと言われています。

 日本からは米や漆器などが入ってきて、ロシアからは海産物が日本に輸出されていたようです。

 ロシアの名物マトリョーシカも日本の木工の影響を受けて19世紀末に誕生したもので、こけし節、達磨説、入れ子細工の人形説などいろいろあります。

 日本との関わりの中で生まれたロシアの名産です。

 ウラジオストクに最も多く日本人が住んでいたと言われる時代がロシア革命前の頃で7000人ほどの日本人が住んでいたといわれます。あるいはこの時代は今よりも日本が国際化していた時代かもしれません。ウラジオストクには日本人街もありました。

 日本の銀行が建てた建物や日本の商社が建てた建物などがまだウラジオストクには存在しています。外貨を稼ぐために日本人が外国に働きに出た時代の名残がウラジオストクにはあります。。

 1917年のロシア革命以降になると、ウラジオストクに住めなくなった日本人が向かった先はハルビンでした。軍港となったウラジオストクにロシア人でさえ簡単に立ち入れなくなったのは1930年ごろと言われています。

 ハルビンや旧満州と言うと開拓団などの農民を思い浮かべますが、ウラジオストクからハルビンに移り住んだ人たちは洋服屋や時計屋、写真館など独自の技術を持った店を開いたり、商社などの第三次産業が多く、この時代にハルビンに移り住んできた人たちと、日本から直接ハルビンに来た人たちを区別する意味で”ウラジオ組”という言葉が用いられていたそうです。

 今ではハルビンの代表的な名所になったソフィア聖堂。帝政ロシアがハルビンの街を作った時代に建設されたものですが、現在は教会の外観だけ残し、中はハルビンの歴史博物館になっています。

 教会の中に飾られた展示物のほとんどは、日本人が残した当時のハルビンの新聞や雑誌や写真です。

 日本から本格的に開拓団が入り込む以前の記録や写真の多くは、ウラジオストクを負われた”ウラジオ組”の日本人が撮影や記録したものだそうです。ロシア人が残した文化財産は鉄道や建物などのハード、日本人が残したものは書籍や写真などのソフト(もちろん電化政策や道路建設などインフラをたくさん残しました)と言うのがソフィア聖堂の博物館です。

 歴史と言うのは面白いもので、イソップ物語の象と盲人の寓話ではありませんが、ある時代を切り取ると閉鎖的であったり、ある時代を見ると国際化や無国籍でったり、そして今は・・・。

 その土地土地が持つ魅力や力でやがてふさわしい形を人々の営みの中で生み出していくようです。ハルビンやウラジオストクが国際的な拠点となっても不思議ではない成り立ちを持っています。

 人もまたしかり?その人が自然に持つ人がらと人がらの絡み合いで、それぞれ形が違うふさわしい関わりが生まれて来るものと思います。

06.3/24