発電所

 1990年代、ソビエト崩壊という国家の死を経験し、あらゆる面で混乱していたロシアでした。今まで政府の計画に基づいて生産されてきた工業製品も、政府の混乱により機能せず、COMECONによって東側諸国で分担していた産業も、ベルリンの壁崩壊と共に機能しなくなり、交通機関の混乱はせっかく作った生産物を運び出すことができず野積みになり、野菜などの食料も流通混乱によって、止まったままのコンテナーの中で腐りはてる事態が続出しました。

 急激なインフラで一夜にして物価を二倍三倍の価格高騰を起こし、ルーブル紙幣は価値を失う。給与の遅配、未払いは当たり前の混乱期でした。

 小規模の暴動はあったようですが、現代中国のような暴動強奪が続出しなかったのはロシア人の民度が進んでいたからかもしれません。

 給料遅配の代表格だったのは教員や医者や発電所の職員。混乱も収まりつつあった1999年にウラジオストクに行った時に、発電所に勤務する友人のお父さんは「3ヶ月給料が出ていない」と言っていました。それでもあわてることなくのんびり生活していたのは、誰しも国にあてがわれた本業の他に自分の仕事を持っていたからで、社会的な意味での仕事と生活のための仕事は別のようでした。

 大学の教授や警察官が本業の合間に自分の自動車でタクシーをやっていたり、シベリア鉄道の車掌をしている女性が、日本や韓国からウラジオストクに入ってきた商品をモスクワに運んで売り、モスクワから別の商品をウラジオストクに運んできて売るなど、ある意味で法的・社会的な秩序はメチャクチャでしたが、そんな取り決めに依存しないで自分の判断と抑制で成り立っているような秩序だった気がします。「他」を省みず、私欲に走るものを「マフィア」と呼んでいたように今になれば思えます。

 「確認が国のためになることは当たり前だが、国が国民のために何かしてくれることを望むのは無駄だ。」とクールで、これが国際標準なのかもしれません。悪口を言いながら国や行政に依存しきっている日本人を彼らの目にはどう見えるのだろう?こうした距離感の違いを感じることは多いものです。

 ウラジオストクの東のはずれ、チハヤと呼ばれる地域にある発電所。シベリア鉄道の線路はここまで伸びており、運び込まれるのは石炭です。

 鉄道から石炭を発電所に運びこむコンベアー施設など豪快なもので、その周辺は石炭の粉で真っ黒になっています。石炭搬入の職員も”どこの国の人?”と首を傾げたくなるほど真っ黒でした。

 そこで私達は何をしていたかというと、貨車からこぼれた石炭をバーベキューに使うために拾い集めていました。つまり、石炭泥棒。

 一応、コークスと呼ばれる蒸し焼きにした石炭で、通常の石炭と比べて光沢があり、高い熱が出るとされています。石炭からコークスを作る過程でコールタールが採れたり、石炭ガスと呼ばれる一酸化炭素を主成分にした燃料ガスなども副産物です。

 当時は全ての煙突から煙が出ていることは稀で、燃料節約のための停電がありました。毎日どこかの地区で電力がストップし停電していましたが、流通も平常になり燃料が安定供給されるようになっても停電はあります。特に最近の夏、中国の電力需要が高くなると、ウラジオストクの市内を停電させて電力を輸出していると言われています。

 冬は発電所のタービンを回すために使う蒸気の熱をパイプラインで住宅群に供給して中央暖房に使っていますが、冬の停電は暖房の停止にもつながります。停電で暖房が止まったときのために電気ヒーターを買った友人がいますが、程なく重要なことに気がつきます。停電の時には電気ーヒーターも使えない。こういうときは布団にもぐって寝て過ごすのが究極の省エネルギー。

 大方の家庭の台所は電気ヒーターのコンロで、電力が停まると調理ができません。混乱期にはパンをかじり、冷たいものを食べて我慢していたようですが、鍋物大好きな日本の知恵、カセットコンロが瞬く間に普及しています。

 ウラジオストクも年々電力消費量が上がり、以前は真っ暗だった夜の街も、街灯やネオンがともっています。暖房を使わなくなった初夏の季節と秋が一番電力が安定している時期で、停電も少ないようですが、7月半ばを過ぎ暑くなってくるとまた停電が復活します。

06.5/31