ブブノワ姉妹
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ロシアでは日本の小説が多くの人たちに読まれており、夏目漱石や芥川龍之介などの明治から昭和初期の小説や、阿部公房などの戦後の昭和の小説、村上春樹は毎度ベストセラーに名を連ね、村上龍から吉本ばななまで多様な日本文学がロシア語に翻訳されて出版されています。 日本でも最近のロシアの作家の小説がわずかばかり翻訳されて出版されていますが、文学書そのものの人気もないこともあり、ほとんど話題になること張りませんし、日本で名前が挙がるロシア人作家の多くは、トルストイやドストエフスキーなどの帝政ロシア時代の作家で、ソビエト時代に入ればゴーリキなどのソビエト初期の作家です。 第二次大戦末期のソビエト参戦への不信感と嫌悪感、東西冷戦などロシアが遠く離れた時代があり、ロシア文学と言えば左翼運動の一翼のように見られる不遇時代もありました。東西冷戦の終結と共に、政治思想とはなんら関係のないロシアの小説がいつの間にか絶版になり、出版社の言い分は「採算性が悪いから」。物は言いようです。 明治から対象にかけては二葉亭四迷をはじめ、上田敏など優れた作家でもあるロシア語翻訳者がおりましたが、戦後の一時期はロシア文学が消えかねない時代になりかけていました。 ワルワーラ・ブブノワ(Варвара Дъмитриевна Бубнова 1886−1983)。はソビエト革命の最中日本に逃れてきた帝政ロシアの美術家でした。父親はロシア帝国の官僚、母親は貴族出身で語学と音楽に秀でた人物でした。長女ワルワラは画家、次女アンナはバイオリニスト、三女マリヤはピアニストとしてブブノワ三姉妹は育ちます。 |
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ワルワラの日本においての評価は美術家よりもロシア文学に関する業績のほうが高く、1982年には日本政府から勲四等宝冠賞を送られています。 彼女は戦前には、早稲田大学のロシア文学講師や東京外国語学校にロシア語講師として勤務していました。 第二次大戦後、ロシア語やロシア文学に黄色信号がともった1946年、早稲田大学のロシア文学科が復活し、講師として教壇に戻っています。彼女の教え子には作家の五木寛之さんなどがいます。 元々は油絵の画家でしたが、版画家の巨匠棟方志功とも新興があり高く評価された画家だったそうです。 画家としては1958年に個展を開き、これをめどに妹のアンナと共にソビエトに帰国し、現在のグルジアのスフミでソ連美術家同盟会員として生活しました。 |
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ワルワラは1979年に妹アンナが他界すると、スフミを離れレニングラード(現在のサンクトペテルブルグ)に移り、ここが終生の地となります。 ワルワラが日本に来るきっかけになったのは、妹のアンナが日本人と結婚して日本で生活していたためで、妹が姉の絵を展覧会に出展し入選したことをきっかけに1922年に母親と共に来日しました。画家の姉に対して、妹はバイオリニストでした。 妹のアンナ・ブブノワ(1898〜1979)は音楽教師としてたくさんの演奏家を育て、世界のトップバイオリニストの1人前橋汀子さんもその1人です。CMソングの作曲家の三木鶏郎もアンナ・ブブノワ門下生でした。 アンナ・ブブノワはペテログラード(現在のサンクトペテルブルグ)に留学していた小野俊一(生物学者・ロシア文学者)と知り合い1917年に結婚し、社会主義革命の混乱の中1918年に東京に移り住みました。一人息子を虫垂炎で亡くしてから夫とも疎遠になり、離婚。その後は日本でバイオリン教師として活躍しました。 |
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アンナ・ブブノワの広く知られている呼び名は小野アンナ。夫だった小野俊一の姪はジョン・レノン夫人のオノ・ヨーコさんで、血縁ではありませんがアンナはオノ・ヨーコさんの伯母にあたります。 国際カップルの母親達は国や政府の制度が変わって社会からの保護がなくなっても、どんな社会でも生きられる子供を育てることを強く意識していると思いますが、秀でた一芸を持つことが異文化でも受け入れられ安いことを実感しているからでしょう。国際カップルには教育ママが多く見受けられますが、実際は不安定な社会の枠の中に押し込むことに熱心な日本のお母さんと違い、個人の資質を磨くことに熱心な母親が国際カップルには多いです。 ある意味、芸術などの分野は親の七光りや継承がありそうで通用しない自分の力のみの世界ですが、逆に見れば平等なのかもしれません。異国で名を成すにはもっともわかりやすい分野だと思います。 ブブノワ姉妹も日本を駆け抜けていった一時代のロシア人です。 06.5/22 |