運び屋
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90年代ソビエト崩壊後の経済と流通の混乱でパンを買うために市民が行列に並ぶ光景を記憶にとどめている方も多いと思います。 品物が不足する危機的な状況はロシアをはじめギガ視側諸国にも波及しましたが、「ピンチ」はまた「チャンス」の原点でもあります。 この時代活躍したのが中国、ロシア、どちらでも簡単に入国できるモンゴル人で、コメコン体制の国家分業システムの中で工業がほとんどなかったモンゴルはロシア以上の物不足に見舞われました。 ここで活躍したのがナイマーチンと呼ばれる「運び屋」で、モンゴルの畜産製品を中国に持っていって売り、中国から雑貨や食料品を買い込んできてモンゴル国内はもとよりロシアまで売り歩き。そのままドイツまで足を運びかえりは中古車を買って帰ってくる人たちでした。 |
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上野写真は北京からウランバートルに行く国際列車の中で一緒だったモンゴル人ナイマーチン。本業は学校の先生しかもモスクワ留学組のエリートです。右の男性は大阪外語大に講師としてきていたこともある大学教授。生活費を稼ぐため北京に買出しに来ていました。 モンゴルの作った「元」は戦争でユーラシア大陸の大方を支配した国ということばかり目が行きがちですが、実は交易を大いに広めた国でもあり、貿易のための街道シルクロードもこの時代に最盛期を迎えています。 |
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ウランバートルからロシアに向かう列車の中で出会った光景は鮮烈で、列車が駅で停車するたびに右の写真のような窓越しの商売が始まります。 深夜であっても国際列車が止まる駅にはセーターや靴などの日常品を買いに来ているロシア人がホームにたくさんいて、短い停車時間に列車の窓越し自由貿易が行われていました。 ソビエト時代の物資はモスクワ経由できたために、モスクワから遠いほど物資が不足していました。逆に言えば、モスクワに近づくほど売れなくなります。 私はこの列車で同室になったモンゴル人母子に食べ物をご馳走になっていたので、一宿一飯の恩義で手伝いをしました。毛糸のタートルネックのセーターを売る母子で、停車駅が近くなるとコンパートメントの中はサイズや色で分けたセーターが広げられ座る場所もありませんでした。 母子が窓越しに交渉し、私が下から品物を手渡す役目で、忙しかったけど面白い経験でした。 生きていくことって大変なんだなあとあらためて感じると共に、なんて生き生きして充実した瞬間だろうとも感じたものです。当時決してロシア人に対してよい印象を持っていませんでしたが、なりふり構わず生きようとする姿が私の先入観を溶かしてくれました。一生懸命生きている姿は当人には大変なことでしょうが美しいものです。 |
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個人貿易と言う意味では外国旅行に行って免税店で高級ブランド物買い込んできて、ネットオークションで売っている日本のおば様方も同じ類なのかもしれませんが、かたや道楽の延長線上、かたや生活がかかっているので真剣さが違います。 むしろ、終戦直後の闇市買出しで地方農村に着物などを持って食料と物々交換に行った時代の感覚に近いでしょう。農村にバブルが訪れたのはこの時代だけですが、日本人もこんな経験しながら生き延びてきたんだなと頭が下がりました。 終戦直後の食糧難時代、ソビエトからはウクライナで取れた米が日本に援助物資として送られてきています。この時代ソビエトがこんなになるとは誰も予想していなかったでしょう。 明日はわが身かもしれません。 |
| 今まで思いつくこともできなかった「自由貿易」。ロシア人だって手をこまねいてみていたわけではありません。 キルピッチと呼ばれるロシア人運び人が国境近くの中国に出現します。キルピッチは「レンガ」と言う意味で、四角い袋に入れた荷物がレンガのようだからそう呼ばれました。 中国人は一度ロシアに入国すると半年間はVisaが出ないが、ロシア人は何回でも中国に入国できた、当時のVisa制度の恩恵で、ロシア人が運び屋として国境を往来しました。東の果てウラジオストクはモスクワからの物資の恩恵が少なかったので、独自の道を開きました。 数年前までは市内に韓国市場や中国市場などの露天外がありましたが、現在はなくなっています。 今でもウラジオストクでは買い物と言えば中国のスイフンヘイに気軽に出かけますが、ちょっと良いものは韓国へ、、もっと良いものは日本まで買出しにやってきます。 |
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05.9/25 |