花一輪
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お盆が近くなったこともあって、スーパーマーケットのレジの近くにさまざまな切花が目に付くようになりました。プランターなどで花を植えるブームもありましたが、日本はこの数年で花を飾ることが身近になってきたように思えます。 私には経済成長と共に花を生けることが日常から遠ざかっていったように感じます。むしろ、まだ貧しかった頃の日本のほうが気軽に家に花を飾っていたように思えます。今にして思えば「心のゆとり」の違いだったのではなかろうか?と見直しています。 ソビエト崩壊後の流通・経済混乱期でも、ロシアの町のいたるところに花屋があり、それを買う人々がいました。ゆとりがあるのかないのかわかりませんが、奇妙な人たちだと思ったものです。 町並みなど色合いが殺風景ですから、花の赤や黄色が妙に映えるもので、2−3本の切花を抱えて家路に向かう黒いコートのおばさんたちが誇らしそうに見えたものです。 花束なんて女々しいものをなどと思っていましたが、ロシアとのかかわりの中で見直すようになりました。 流通混乱でパンや肉を買うのに行列していた時代でも、品数の少ない食卓に花を飾っていたのですから、彼らが優雅というのか私たちがガツガツしているだけなのか微妙なところですが、これからの時代に問われる大きな部分ではないでしょうか? 明日のために今日をあくせくするよりも、毎日を楽しく過ごすことの積み重ねが明日と考える違いなのかもしれません。 見事な花束は雰囲気を明るくさせてくれますが、それよりもさりげなく飾られた一輪二輪の花の色合いや香りが気持ちをやわらげてくれるものです。 見事な花束はどれが枯れたか手入れも大変で不具合が気になるものですが、見事な花束のごときお相手も気になって仕事が手につかなくなってしまいます。心にゆとりをもてない結婚ならば不幸です。 向こうで男の一人暮らしの友人宅に行くと部屋は散らかり放題で、ただ単に汚い。これもまた落ち着けて居心地がよいのですが、やはり女性がいる家庭というのは違うものです。 男同士の気楽さは首から上がすっきりするような気軽さですが、女性のいる空間は肩から下がくつろげるような柔らかさを感じるものです。 部屋が汚いきれいということは別問題として、花一輪の演出だったり、お茶を差し入れてくれるタイミングであったり、細かなところで男性にはない安堵感をもたらしてくれるものです。 本来、競い合うために男女があるわけではないので、これもまた当然の自然の摂理なのかもしれませんが、男性が男性と同じことを女性に要求してもこたえられないでしょうし、女性が女性を見る目で男性を見ようとしても肝心なことは見えないでしょう。しばしば男女のいさかいの原因には、「男」と「女」の違うを忘れてしまったがゆえの揉め事があるものです。 花一輪のゆとりはささやかですかとても大きなものです。食卓のテーブルにお盆の切花が生けられていても”まあ、感覚が違うんだからこんなものでしょう”とゆとりを持って歯を食いしばるのも忍耐です。 05.8/5 |