大地の上で考えた
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シベリアの台地を列車や自動車で横断すると窓のそとに見えるのは見渡す限りの針葉樹の森か草原です。森や草原の中にポツリと小さな町が見え、そこから何十キロも離れたところにポツリとまた街が見える。そんな光景が延々続いています。 はたして何を生業に生活しているのだろうか?と、考えたところで、林業か農業以外ありえないのですが、どんな人たちが住んでいるのだろう?と不思議に思えてしまいます。 ソビエト末期に、ソ連から世界に向けて発信されたとんでもないイタズラがありました。シベリアの山の奥深く、洞穴にひっそりと暮らす家族が学研されたと言うニュースです。帝政ロシア崩壊の時にここへ逃げ込んで以来、誰とも接触せずに暮らしていて、第二次世界大戦があったことさえ知らずに生活していたとソビエトから発信され、世界がこぞってだまされました。シベリアの大地を上空から眺めると、それもありうることと思えてしまいます。 |
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行けども行けどもどこまでもロシア。どこまで行っても景色が変わらない時間が止まったような風景の中は禅那の境地のようで、「無」の境地に達したドライバーが道路わきに突っ込むと居眠り運転ですね。 旅は点から点への移動ではなく、その過程を含めた一本の線のようなもの。結果から結果への移行ばかりに目を奪われ、起承転結の「起」と「結」しか気にしなくなっていることなど旅の徒然に考えながら大地を行く。というと聞こえがよいのですが、出口の見えないトンネルに突っ込んだようなもので、「いつつくのだろう?」「どこまで行くのだろう?」と不安との対話もあります。 五木寛之は大嫌いな作家なので作品は必ず読むようにしているのですが、「大河の一滴」の中で”私は人間の価値というものを、これまでのように、その人間が人と生まれて努力をしたりがんばったりしてどれだけのことを成し遂げたか──そういう足し算、引き算をして、その人間たちに成功した人生、ほどほどの一生、あるいは失敗した駄目な生涯、というふうに、区分けをすることに疑問をもつようになりました。” と書いています。 人が生まれて生きて死んでいく。こんなところにいてはそれだけで終わってしまいそうに思えますが、”それこそがもっとも大切なこと”で、「生まれて」「死ぬ」、「起」「結」の拘束からとき離れた姿が、行く先も見えない、方角もわからないこんな大地で、道筋を探している姿こそ「承」と「転」なのかもしれません。 |
| 地平線から太陽が上り、地平線に沈んでいく。日本にいては体験できない光景だと思います。 広大な景色は自分の小ささをまざまざと突きつけて立ち去っていくもので、デカルトのように”我(吾)思う、ゆえに我(吾)あり(Cogito ergo sum.)”などと考えなくても、なんとなく自分がそこにいるし、誰かがそばにいてくれるとすごく心強いしうれしいんだけどと感情がわいてきます。 誰でもいいから「人間」がいることがとてもありがたく感じるんですね。 人と人との関わりの素朴な根幹部分は枝葉に隠れて見えなくなってしまうものですが、「理屈」と言う余計な枝を切り落とすと「好き」と言う感情の幹が見えてくるはずです。 |
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05.8/31 |