Анна  Герман

 Анна Герман Евгеньевна (1936年2月14日〜1982年8月26日)。

 アンナ・ゲルマン。ウズベキスタンで生まれポーランドに移住し、ロシア語で歌を歌っていたソビエト時代の大御所歌手です。

 1982年はソビエトの大きな転機を迎えた歳でもあり、圧倒的な権力を誇っていたレオニード・ブレジネフが11月10日に亡くなり、ユーリ・アンドロポフ(書記長在任期間1982年11月12日〜1984年2月9日)、コンスタンティン・チェルネンコ(書記長在任期間1982年2月13日〜1985年3月10日)の短期政権を経て、民主化へ突入するミハイル・ゴルバチョフ(書記長在任期間1985年3月11日〜1991年8月24日・ソビエト大統領在任期間1990年3月10日〜1991年12月25日)、へと続くソビエト崩壊への10年の道のりが始まった年でもありました。

 アンナ・ゲルマンはそんな時代を見ることもなくブレジネフが死去する二月半前に白血病のために46歳でこの世を去りました。

 右の写真は晩年?の彼女の写真で、すでに白血病におかされていたころの写真といわれています。

 19世紀、帝政ロシア時代に情緒的でメランコリックなロマンスと呼ばれる宮廷音楽がロシアで流行りました。その美しいメロディーと感動的な詩はソビエト時代にも好まれ、アンナ・ゲルマンはロマンス歌いとして登場してきました。美貌と美声と歌唱力を誇った歌手でクラシックから流行歌まで幅広く活躍した歌手です。

 彼女が以下に人々に愛された歌手であったかを思い知らされる証拠に、ソビエトの女性天文学者シュミルノバが1981年に発見した小惑星2519にアンナ・ゲルマンと彼女の名前がつけられており、文字通りスターになっています。

  現在でも幅広いファンを持っていますし、彼女が世に送り出した歌の数々は人々に親しまれ、さまざまな歌手がトリビュートしています。

 希望を意味するНадежда(ナヂェーヂダ) は現在のロシアを代表する人気歌手アルスゥがコンサートで好んで歌っていますし、世代を超えてこの歌を愛する人々も多いです。

 ♪ここをクリック♪ (Windowsをご利用の方は右クリックして「対象をファイルに保存」してインストールしてお聴きになると、いつでもご自身のPCで聴く事ができます。)

 以前、Притча(プリッチャ)のコーラスで紹介した詩人ミハイル・レールモントフの名作”ВЫХОЖУ ОДИН Я НА ДОРОГУ”(われ一人旅路に出れば)を世に広めたのも彼女の歌唱があってこのとではかなろうかと思います。

 ♪ここをクリック♪ (Windowsをご利用の方は右クリックして「対象をファイルに保存」してインストールしてお聴きになると、いつでもご自身のPCで聴く事ができます。)

 プリッチャのコーラスのВЫХОЖУ ОДИН Я НА ДОРОГУ♪と聴き比べてみてください。どちらも荘厳で気高い孤独と寂寥を歌い上げていますが、心に染み入る角度が違って面白いです。

われ独り旅路に出れば

 一、われ独り旅路に出れば もやの向こうに石くれ道がきらめく 夜はひそやに、荒れ野は神の声に聞き入り、星と星は語り合う

 二、天上は厳かにして麗しい! 青い光の中で大地はまどろむ・・・ なのになぜわれはこうも悲しみ、こうも悩む? 何を望み、何を悔やむ?

 三、われ既に人生に何も望まず、 来し方に一縷の悔いもなし、 求めるのは自由とやすらぎ! われを忘れて眠りたいのだ!

 四、されど墓場の眠りはとどまることなく われ永久なる眠りを離れたい 胸の中で命の力はまどろみながら 穏やかなる呼吸と共に満ち引きする

 五、昼が過ぎ夜が過ぎ、甘き声でわれに愛を歌う 聴きてわれは癒しを乞うだろう われよりも永久に緑なる暗き樫の木 カサカサとたわむ 

 (訳詩は1〜3は米原万理先生の訳詩を引用、4〜5は私自身の訳文なのであまりあてになさらないように)

ВЫХОЖУ ОДИН Я НА ДОРОГУ

Выхожу один я на дорогу.
Сквозь туман кремнистый путь блестит.
Ночь тиха, пустыня внемлет Богу,
И звезда с звездою говорит.

В небесах торжественно и чудно.
Спит земля в сиянье голубом.
Что же мне так больно и так трудно?
Жду ль чего, жалею ли о чем?

Уж не жду от жизни ничего я.
И не жаль мне прошлого ничуть.
Я ищу свободы и покоя,
Я б хотел забыться и заснуть.

Но не тем холодным сном могилы.
Я б желал навеки так заснуть,
Чтоб в груди дремали жизни силы,
Чтоб, дыша, вздымалась тихо грудь.

Чтоб всю ночь, весь день, мой слух лелея,
Про любовь мне сладкий голос пел.
Надо мной чтоб вечно, зеленея,
Темный дуб склонялся и шумел.

 個人的な話ですがトランジスターラジオのコラムでも紹介したように、1970年代ラジオの深夜放送にはまっていた私は、夜な夜な強力な電波で流れてくるウラジオストク極東放送に悩まされていました。

 山などの関係で東京からの電波よりも日本海側の電波のほうが入りやすい土地だったこともあるのでしょうが、あの極東放送の迷惑なラジオ放送には腹が立ってなりませんでした。ラジオのチューナーの精度も悪かったのですが。

 ホリエモンがまだガキだったころ、ニッポン放送と極東放送の微妙な周波数の重なりの中で、両方の音声が同時に入るラジオ放送を布団の中で聴いていました。

 迷惑千万なソ連の放送の中で唯一の救いは音楽が流れた時。思わずそちらのほうにチューナーのダイヤルを合わせてしまいましした。

 その頃、「なんて美しい声なんだ」と聴きいっていたのが彼女の歌で、なんと言う歌なのか?なんと言う歌手なのか知らないまま吸い込まれていました。当時の私の印象ではソビエト版シャンソン歌手と言うイメージでした。

 1982年の冬、ハバロフスクに行った時に彼女の歌が流れていることに気がつき、当時私たち外国人のスパイを兼ねていた極東大学での通訳に聞いて、アンナ・ゲルマンという歌手だと知りました。その通訳がカセットテープに彼女の歌を録音してプレゼントしてくれたのを今も大切に持っています。

 この通訳、何かとうるさい監視役で快く思っていませんでしたが、アンナ・ゲルマンのファンで、彼女の写真が出ている雑誌をこっそりと見せてくれました。もっとも、昔の若かりし頃の彼女の写真で、現実には上の晩年の姿になっていたのですが、すっかり魂を奪われてしまいました。

 感情のないソビエト市民を冷たく恐ろしい連中だと思っていましたが、「こいつ本当はいいやつかもしれない」とその時思ったものです。ロシアとの第一種接近遭遇はここにあったのかもしれません。

 思えば小さなきっかけが積み重なって今に至っているのですね。

05.07/7