恋の逃避行
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1970年代後半からソビエト崩壊まで、旧ソ連圏から西側諸国に亡命する人々が相次ぎました。
日本からソビエトに亡命した人は数少ないうえ、そのほとんどが戦前・戦中のことです。日本からソビエトに亡命した人物の中でもっとも注目されたのは、当時売れっ子女優だった岡田嘉子が愛人の演出家杉本良吉と樺太の国境を越えてソビエトに亡命した「恋の逃避行事件」でしょう。 日露戦争以降、樺太は北緯50度線を境にその南は日本の領土でした。昭和12年(1937年)12月27日、日露国境の敷香(シスカ)の町で、北緯50度の国境線を吹雪にまみれて越えた男女がいました。岡田嘉子(34歳)と杉本良吉(本名吉田好正30歳)です。両者とも配偶者がいる身でした。 岡田嘉子は人形のようで自由のない日本での女優生活に辟易しており、新天地での活躍に希望を持っていました。杉本は日本共産党員で、当時既に日中戦争が始まっており徴兵を逃れる目的と、ソビエトの演出家メイエルホリドの元で演出を勉強する目的で、国境を越える決断をします。 国境を越えて程なくソ連の国境警備隊に捕まった二人を待っていたのは、自由とは正反対の密入国と言う罪。サハリンのアレクサンドロフスクそしてハバロフスクで拷問を受け、スパイ罪の罪を着せられ服役する羽目になります。 |
| その後、モスクワに移送され、内務人民委員会(後のKGB)で取調べを受け、1936年6月までの長きに渡って取調べを受けます。1939年9月に最高裁判所の判決が出て10年間の強制収容所送りになります。強制収容所の女性の運命など哀れなもので、監視官や同じ囚人の慰み者だったそうです。
同じ日に判決を受けた杉本良吉は1939年10月に銃殺になりますが、岡田嘉子には病死と伝えられたそうです。サハリンで逮捕されたときが二人が顔をあわせた最後のときでした。岡田嘉子が杉本良吉が死刑だったことを知るのは1959年で、それまでは病死と信じていたようです。岡田嘉子の自白が元で杉本が死刑になったことを初めて知ります。 杉本良吉が慕ったソビエトの演出家メイエルホリドも1940年に銃殺されています。杉本が「自分は日本軍のスパイでメイエルホリドに接触しようとした」と自白させられたからです。 疑わしきものは罪をでっち上げても罰せよのスターリン時代は、こうした冤罪で処刑された人間は多いです。 さながら今で言うなら北朝鮮に渡った在日の人たちに合い通じる運命ですが、甘い打算だけで日本に渡ってくる昨今の外国人にも同様の悲劇は起こっているのかもしれません。 第二次大戦中、独ソ戦争が終わり次のターゲットが日本になった頃、岡田嘉子はモスクワの内部監獄に移されます。そこには当時ソビエトにいた日本人や、日本研究者のソビエト市民などが囚人となって集められていたそうです。 10年間の収容生活を終えた岡田嘉子は1948年にモスクワ放送に配属され翻訳や日本向け放送のアナウンサーとしての仕事につきます。1950年、満州で捕虜になりそのままソビエトに残った俳優の滝口新太郎と結婚します。1955年に53歳でルナチャルスキ−演劇大学で本格的に演劇を学び始めます。 1971年に滝口新太郎が死去し、その頃から日本へ帰りたい思いが強くなり、1972年に帰国します。このときのことを私は記憶していますが、羽田空港のタラップをサングラスをして降りてくる岡田嘉子を「ふざけるな!」と言った視線で大人たちが見ていたものです。 日本では人気映画「男はつらいよ夕焼け小焼け」に出演しています。このときのマドンナは大地喜和子で、宇野重吉が著名な画家の役で出ていました。岡田嘉子がどんな役だったかなど記憶にないような役柄でしたが、話題になったものです。 岡田嘉子は再びソビエトに戻り日ソ友好大使として尽力します。彼女の身に起きた事彼女の周囲の人々に起きた事が明るみになってくるのは主に彼女の死後、ソビエト崩壊以降です。 一緒に逃避行した杉本がどこで銃殺になり遺体がどこに埋められたのかもわからりませんでした。そんな中の1991年。ロシアの黒海沿岸の地ソチのオストロフスキー記念博物館から、ニコライ・オストロフスキーの著書「鋼鐵はいかに鍛へられたか」の日本語翻訳を杉本良吉がしていたために、記念館に写真を飾りたいと言う話が彼女の元に舞い込み、岡田嘉子は高齢を押してソチに出向きます。 恋の逃避行から54年、1992年2月10日岡田嘉子は89歳の生涯を閉じます。遺体はモスクワのドンスコイ葬儀場で火葬され、遺骨は日本に埋葬されています。彼女の死後、杉本良吉の遺骨がドンスコイ葬儀場の墓地のどこかに埋められていることがわかりますが、恋の逃避行の人生の結末もすれ違いの悲劇で終幕しました。 04.8/29 |
| 後記 良い、悪い。と安易な判定などできないほど、人の人生と言うものは深く重いものです。岡田嘉子と言う女優に対して個人的には決して好意的な印象を持っていません。が、彼女が自暴自棄にならずなりふりかまわず生きてきたことに対しての敬意は持ちたいと思っていますし、この姿勢がソビエトと言う時代を行きぬいた人々の姿だったのかもしれません。
しばしば、ロシア人の曖昧さには並行することがありますが、裏の裏のそのまた裏がある複雑な環境を生き抜いてきた背景が、ロシア人の複雑怪奇な性格に大きな影響を与えているのではないかと思えます。喜びと悲しみが同時進行しているようなロシア人の感覚の一端が、岡田嘉子の人生の中に読み取れる思いもしました。 ロシアにあしげく通っていると感じることですが、強くなければ生きられません。泣き言や言い訳を極端に嫌う人々です。モスクワは涙を信じないではありませんが、どんな状況であれ泣き言など言わずに生き抜く者だけが信頼を得られます。 |