1930年体制
| かつて存在した脅威の大国ソビエトは、社会主義革命から74年、ソ連成立後69年で崩壊しましたが、そのうち31年が「1930年型社会主義」と呼ばれるスターリンの時代でした。
1953年9月スターリンの死後、フルシチョフが党の第一書記に就任し、スターリン批判に始まる1930年型社会主義からの脱却を図りますが、農業政策などの失敗を理由に失脚し、1964年ブレジネフに引き継がれます。1930年型社会主義からの脱却は1985年にゴルバチョフが党第一書記に就任するまで待たなければなりません。 ブレジネフは路線を1930型社会主義の方向へと戻し、1982年に死去するまでその玉座に君臨します。スターリンの31年、ブレジネフの18年とソビエトは69年の歴史の中で実に49年は「停滞」した不遇の時代を歩んでいます。 ソビエト時代の歴代共産党書記長で存命中に退陣したのはフルシチョフだけです。ゴルバチョフも存命中に退陣したといえばそうかもしれませんが、少し事情が異なっていると思います。 フルシチョフ時代、1957年には人類初の人工衛生を打ち上げ、1961年の4月にはユーリ・ガガーリンが人類初の宇宙飛行を成し遂げ、ソビエトがUSAと科学技術や経済面でも正面切って争っていたのはフルシチョフの時代でした。平和共存を旗頭にしたフルシチョフの路線は、毛沢東には「修正主義」と批判されたものの、東西冷戦の雪解けをにおわせ、資本主義国の労働運動や社会主義運動にも大きな転換をもたらしました。 スターリン批判の中では、スターリン時代の粛清の中で一般市民はもとより中央委員会や代議員の中にも「反党分子」のレッテルを貼って逮捕・拷問・銃殺をしていたことを明らかにし、粛清の犠牲者が何千万人にも及ぶことを明らかにしました。独裁者となったスターリンは独裁者ゆえの猜疑心に陥り、自分の家族でさえ粛清してしまったほどです。あのフルシチョフでさえスターリンの夕食会に呼ばれると無事帰れるのか不安であったそうです。 スターリンの粛清の影響は同盟国にも及び「国家反乱」や「スパイ」の名の元に多くの犠牲者を出します。隣国ポーランドではアンジェイ・ワイダがプロデュースでカンヌ映画祭で賞を得た「尋問」と言う映画が1982年に製作されましたが、故なき罪で5年間も拘留されでっち上げの供述書への署名を拒否し続ける女性の戦いが描かれています。ヒロインの命がけの抵抗も、スターリンの死でいとも簡単に釈放されてしまうのですが、隣国に与えた大きさを感じさせます。 スターリンに対する民衆の鬱積はフルシチョフのスターリン批判で一気に噴出し、モスクワのレーニン廟に安置されたスターリンの遺体は引きずり出され、スターリンの銅像は引きずり倒され、ソビエト国内はもとより、東側諸国にも大きな影響を及ぼします。キューバ危機などUSAとよもやの事態を招いたのもフルシチョフの時代ですが、ソビエト市民にすればスターリン時代と比べてはるかに安心して生活できる時代でした。 こうした事態に危機感を持った党の幹部からフルシチョフ路線の批判も相次ぎました。党の幹部にすればスターリン時代の方が自分たちにすれば権力も強くて都合よかったですし、特権階級でいることができたことが大きな原因かもしれません。1930年体性の復活を望む党員をそのまま抱えていたことがフルシチョフの足元をすくうことになります。フルシチョフが他界するのはブレジネフ時代の1971年ですが、その葬儀はひっそりとしたものだったそうです。 フルシチョフが更迭されブレジネフの時代になると、時代は逆戻りし、スターリン式指令経済と中央集権の元で非能率・低生産・労働者の怠慢勤務が蔓延します。スターリン時代ほどではありませんが、非人道的な粛清は行われていましたし、「ノーメンクラトゥーラ」と呼ばれる特権階級が優遇される反面、市民は物不足に見舞われ、「豊な社会」と反対の生活や、「貧しさ」と言う「平等」を手に入れることになってしまいます。 フルシチョフ時代の雪解けムードでUSAがデタント(緊張緩和)と肩の力を抜いている間に、軍備を充実させ、世界各地の小国を取り込み、いつの間にか世界地図で赤く塗られる国々が増えてしまったのもこの時代です。 1968年のチェコ・スロバキアのプラハでは、プラハの春と民主化を求める市民に対して、ソビエト軍が軍事介入して流血の惨事になり、「コーリャ」や「存在の耐えられない軽さ」といった名作が後に生まれたものの、市民の暮らしは「自由」とは逆の方向に引き戻されてしまいます。 ロシア人が肝心の部分をごまかしたり黙秘するのはこうした社会の中で生き抜くため培われてといわれていますが、ソビエト以前もうかつな発言で自分の身がどうなるかわからない時代を生きていたので、もはや民族性のようにも思えます。国家に絡んだことなどはまずまともな返答が帰ってきませんし、うかつに興味本位で信頼されていない相手に質問すると内務省に通報されかねません。しつこく問いただされると掌を返したように警戒し冷淡になるのも特徴的で、信頼関係が出来上がらないとなかなか打ち解けて話してくれません。時代は変わっていますが、大きな傷を持っているようにも思えます。 スターリン時代とブレジネフ時代は中央一極集権、官僚支配であったことは共通でしたが、情報の多様化は大きく異なっています。もはや1930年型社会主義の時代ではないとわかっていたのか、病床のアンドロポフ(1982年〜1984年まで就任)、チェルネンコ(1984年〜1985年まで就任)を書記長に祭り上げ、1985年一気に若いゴルバチョフへチェンジします。 ゴルバチョフの政策の一つ、グラスノスチ(情報開示)が民主化と1930年体制崩壊へ向けて与えた影響は大きく、滅び行く共産党の悪あがきは1991年のゴルバチョフ拉致によるクーデター失敗で終焉し、1991年12月ソビエトの解体で幕を閉じます。 おかげで今まで外国人は立ち入ることはおろか、その名を口にすることも許されなかったウラジオストクに、入れるようになりましたし、遠くから眺めるだけで会話を交わすことさえできなかったロシア人と結婚まで出来るようになりました。 これからをどう作っていくか、大きな課題だと思います。 |